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獅子渡御:宵宮祭(宵の宮から松手の宮へ)
夜8時、区長、氏子総代、青年会と共に守護役を先導に宵の宮へと獅子をお迎えに行く、参拝を済ませ
青年会の持つご浸神燈の明かりで宮を出る獅子の姿は誠に勇壮である。渡御は先導に身のたけ一丈
あまりの猿田彦命、区長、氏子総代、続いて当時を表すササ竹を獅子の頭上に被せ、
ササの綱を手に子供連中が人身供養の唄を歌いながら綱を引く。
青年会や村人が打ちならす大太鼓の音に合わせ、一歩又一歩と進み約2時間近くかけてのお渡りとなる。
死児の橋へ近づくと太鼓も早打ちと変わり宵宮祭は絶頂に達す。
氏子、村人の見物人も死児の橋へと集まり、猿田彦命(さるたひこのみこと)先導に天鈿女命
(あめのうずめのみこと)と共に宙に大きく舞いながら、青年会の担ぐ大太鼓と
松手の宮へと疾走し、1泊され多くの参拝者が訪れます。
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松手の宮に1泊された2神は午後1時30分渡御お祓い神事。2時宵の宮へ戻る。構成は前夜の宵宮祭と
同じである。遠く故郷を離れた人、嫁がれた人たちにとって思い出に残るこの祭りに帰省する人も多い。
小田原提灯の下で2神が舞い、大太鼓と続き、大鳥居をくぐり疾走して宵の宮に戻り1年間鎮座されます。
舞いこむ獅子に続き参道境内は参拝者で一杯になる。神事には来賓の市長、衆議院、県・市議員を含め、
参拝者一同で約1時間にわたり行われる。神事後は婦人部や子供会、青年会の催事があり午後11時終了。
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毎年10月の第2日曜日に(本祭り)が開催される。由緒社伝によると、その昔本堂村は平和で村の人々は
楽しく暮らし、春と秋の祭礼には豊作を祈願して夜の明けるまで踊り続けたという。ところが、
9月13日(祭礼の前日)宵宮祭当日になると小さな子供のいる家の屋根へ
1本の不気味な白羽の矢が立てられた。
その家の男の子を神様の「いけにえ」と信じ笹の生い茂る無気味な「死児の橋」へと送る習わしが
続く様になった。いけにえに出さないとその年は大凶作となり平和な村は悲しみの
どん底へ落ちた。ある年、通りがかりの侍は、これは怪物の仕業といい、
いけにえの箱に待ち伏せ、現れた怪物を一太刀、翌朝村人たちと
逃げた血の跡を追うと、高尾山の奥深い洞窟の中にいる怪物を退治した。
それからの村は平和が戻り村人たちは安心して暮らせるようになった。これも旅の侍のお陰とその徳を
慕い祭りを心ゆくまでお祝いすることになったと伝えられている。侍は一言「わしは猿田彦の
子孫で国中の化け物を退治するために旅をしている」と旅に出た。
それから、猿田彦命(天狗神)と天鈿女命(獅子神)夫婦神をお祭りにして、永くその徳を伝え、
今なお町内上げて2神を祀る渡御神事が催行されている。
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今年は神社守の責任班となり、昨年秋から取材を続けて今回の公開となりました。年末年始から秋の祭事
までが担当班となりました。子供の頃から祭りに参加して、子供達3人も参加してきました。
村の行事として単純に参加してきましたが、実際裏方でお世話することになり、是非
多くの皆様に知って頂く為に、今年(2010年)初めて公開する事になりました。
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男の子たちが法被を着て、女の子は綺麗な着物を着て祭りに参加してきましたが、少子化の為、女の子も
法被を着て参加している現状です。サイヨリミヨリ、イテデコデントイコマイカ、センコノハシヲ
(死児の橋)コシタナラ、イケーチチヲニギラシテ、ナンバミソイヤナラゴットミソと繰り返し、
2時間唄いながら行列します。現在でも子供達と一緒に唄えます。
体育の日に本祭開催、全国各地で多彩な行事が開催されていますが、興味がございましたら是非お越し
下さい。もち米で炊かれた「オンモク」をお持ち帰り下さい。食すると無病息災家内安全のご利益
があると伝えられています。また、お神酒(地元の酒)とスルメも振舞われています。
その他、2神のご神衣を作る「紙切り」越前和紙を大きな包丁で切る行事がある。祭事の守護役は、宮本、
円光、2軒の堂下、以上の4家で昔から変わらず現在まで引き継がれている。
獅子7郷巡業:7郷とは、本堂、更毛、羽坂、細坂、安田、北堀、恐神で、その昔人身供養された12軒の
家をご供養に立ち寄り、獅子は各家で約20分安置され、夕方宵の宮へ戻る。猿田彦命は
守護役の家に安置される。村人は神様をお迎え、ご供養米を各辻道で献上する。
NPO法人フードバンクふくい理事長:出雲晴夫(元 福井市本堂町住民)
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